神社・古墳めぐり / 尾張の式内社めぐり / 日置神社

日置神社


式内日置神社は、中区橘町の日置神社に当てることで諸書が一致している。

現在、遺存する日置神社は、明治初年に社名を改めたもので、それ以前には八幡宮・日置八幡と称された。

また、俗に千本八幡とも呼ばれたが、これは永禄3年(1560)の桶狭間の合戦の時に、織田信長が清須より出陣の際、当社に武運を祈り、戦勝のお礼に松樹千本を当社の境内に植えたといわれている。

【由緒】
当社の創祀年代は不詳だが、当地に居住した日置氏(日置部)によって奉斎されたと考えられる。

社伝によると、当社は天正年間に品陀和氣(ほむたわけ)命(応神天皇)を勧請して合祀し、それ以後日置八幡と称した。

寛文4年(1664)に、その神域を割いて町屋が建ち、天和3年(1683)には、更に妙善寺が建てられ、従来の形状が著しく変貌したと伝えられている。

明治4年に、社号をもとに復して、「日置神社」に改称している。

【所在】

現在の鎮座地は、名古屋市中区橘町1丁目3の21番地。

この地はもと松原村と称したが、後に日置村、下日置町に変化して、現在橘町となっている。

その位置は、名古屋駅の東南2.7km。

なを、鎮座地が遷座しという社殿は無い。

【祭神】

現在、天太玉命・品陀和氣命・天照皇大神の3柱が祀られている。

このうち、天太玉命は、日置部の祖先として祀る神であるというが、天太玉命は、忌部氏の祖神で、日置部の祖神は、天櫛玉命である。「古史傳」によれば、天太玉命は天櫛玉命と同神としている。 

祭神については、江戸時代から諸説あったようで、「日置部は、天櫛玉命の子、天奇耳命の後なりと見えたり、日置部の祖神にや」としている説もある。

境内に掲げられていた、熱田神宮の宮司による「日置神社碑」には、祭神は、日置氏の祖神である「天櫛玉命」ととしている。


日置部は、境内にあった教育委員会の説明板によると、「暦を司った」とあるが、和田萃 著「日本古代の儀礼と祭祀・信仰」によると、井上震氏の詳細な研究を引いて、日置部や日置の地名は、河川の河口部や中流域の要衡に分布していることから、日置氏は司水的な豪族であるとともに、土器生産のみならず、砂鉄を産する地域では鉄生産にも従事した可能性が指摘されていて、さらに太陽信仰ともかかわりを有していたらしい。

谷川健一著「四天王寺の鷹」でも、鉄や銅を溶かす鍛冶に関係していた氏族であると考えられる、としている。

この神社の在るところは、近くに「金山」があり、鍛冶に関係していたことをうかがわせる。


境内社としては、社殿の西側の森に「大黒・恵比須社」がある。


その隣には、倉稲魂命を祀る「廣富稲荷神社」がある。

 

椋(むく)の巨木を背にして、「日置龍神社」もある。

拝殿前の西側に東面して、「橘社」があり、尾張徳川家二代藩主瑞龍院殿光友公を祀り、また、津島社・熱田社・秋葉社を合祀している。


【社殿】


南南西向きに建ち、正面に拝殿、そして神楽殿、手水舎、社務所及び倉庫が付設する。

 
 


本殿は流造りで、千木鰹木が載る。


屋根瓦には、「麻の葉紋」がつく。


【参拝記】

2011年11月16日、大須と金山の中間にある日置神社に名古屋の実家から自転車で訪ねた。

町なかにけっこう大きな森があり、クスノキ・ムクノキ・イチョウなどの保存樹もある。

拝殿には、鏡が祀られていた。

台風で倒れた「椨(たぶ)の木」が再生している様は、瑞々しい。


ちなみに、「「椨(タブ)」(禁忌)」というのは、「禁忌」が「タブー」で語呂合わせになっているのだろうか?